関戸久妙 半生記
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4.身延山での修行 |
1.夫の死から、雛鶴神社の再建を決意
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昭和32年5月、私の住んでおりました山梨県南都留郡秋山村で、村長選挙に村人の8割が選挙違反に問われるという事件が起き、村中、大騒ぎになりました。 ある時、野呂川林道の視察に出かけた夫は、西山温泉で倒れてしまいました。クモ膜下出血でした。そして、10月25日。とうとう夫は、47歳の若さで亡くなってしまいました。 夫を亡くした深い悲しみの中で、私は夫のいのちを奪ったのは、秋山村のあの騒動であることを思うと、もう二度と、こんな悲しい犠牲者が出ませんようにと、夫の冥福を祈ると同時に、村の平和を神仏に祈らずにはいれませんでした。
私の家には、古い軸がありました。それは、木花開耶姫を描いたものでした。 「祭られたお方の魂と祭った人との魂とが籠もっているのに、この様に粗末にしておくから、こんなことになったのです。ご主人よりも、本当はあなたの寿命が短かったのですよ。でも、為すべき事があるので、あなたは残されたのです。雛鶴神社をきちんとお祭りすれば、村も落ち着きますよ。」
雛鶴神社とは、雛鶴姫を祀った神社のことです。 また、その20年後、護良親王の王子、綴連(つづれの)王が、戦乱の中を亡命して、この地に来られ、村民の話に不思議な因縁を感じ、村に住み着いて73歳の天寿を全うしました。そこで村では、護良親王、雛鶴姫、綴連王を神に祀り、雛鶴神社を創建しました。
ところが、いつの日か、その神社は小さな祠があるばかりで、皆からは、忘れられておりました。 |