関戸久妙 半生記
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4.身延山での修行 |
4.身延山での修行
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昭和37年1月27日、家をあとにして、身延山に向かいました。 翌日は、思親閣に登って、本堂で祈りました。 私はといえば、実母、姑と二人の母を捨ててお山にあがりましたのに、修行の場も見つからず、といって今さら村にも帰れず、先のことを思うと、涙があふれて止まりません。 「私は自分のために信仰に入ったのではございません。村の平和のために、神社を再建して、少しでも世の中のお役に立ちたいと信仰しております。どうぞ、私に、修行の場を与えて下さい」
しかし、ありがたいことに、この思親閣の別当様のお許しをいただいて、その後、二年間、おいていただくことになったのです。 私にできることは、お給仕しかありません。それだけでも一所懸命にやらせていただこうと思いましたが、なかなか思うようにはいきません。 |
それでも、まわりの方々に、助けていただきながら、裏に畑を作ってとれた野菜を漬け物にするなど、少しずつ自分なりに工夫できるようになっていきました。
毎日、全国から集まってこられる、多数の信者の方々にお会いしながら、疋田上人の説法を聞かせていただけたこの二年間は、私にとって大変充実した日々でありました。
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疋田上人 |
夕焼け富士の素晴らしさ、その夕焼けがが山々に反射してあたりが薄紅色につつまれ、杉木立が黒く浮き出る姿は、また格別の美しさでした。 そして、五月のある月夜の晩に、お参りしようと外に出たとき、まわりの景色を見て、私は、はっとしました。 ここでの修行は、不安と孤独で死ぬことさえ考えていた私に、神仏がずっと以前から用意しておいて下さったことなのだと、そのときはじめて私は悟ったのでした。
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